ヨコハマダンスコレクション史
● ダンコレとバニョレ
ヨコハマダンスコレクション(以下「ダンコレ」)は2024年に30回を迎える。この規模の国際ダンスフェスティバルとしてはアジアでも最も古いもののひとつだろう。日本はアジアの中で突出して早期からコンテンポラリー・ダンスへ取り組んだ国だが、中でもダンコレは日本のコンテンポラリー・ダンスの黎明期から支え続けてきた重要なフェスである。首都圏全体を見回しても、毎年行われている国際的なダンス・フェスティバルとしては、ほとんど唯一の存在といっていい。
第1回(96年)会場は93年に開業したばかりの横浜ランドマークホールと、関内ホールで行われた。現在ビルが建ち並ぶ「みなとみらい21地区」全体が開発の真っ最中だった。
ダンコレを立ち上げたのは横浜赤レンガ1号館の当時の館長であった石川洵である。目玉企画はすでに2回東京で行われていた「バニョレ国際振付コンクールのジャパン・プラットフォーム(国内推薦会。以下「バニョレ賞」)」の横浜への「引っ越し」だった。本国のバニョレを1986年に勅使川原三郎が受賞して一気に世界へブレイクしたことで、同賞はいちやく海外進出の登竜門として若いダンサー達の目標となった。ダンコレのコンペティションと兼ねる形で開催され、最高に注目を集めた中でのスタートとなった。
ここから伊藤キム(96)、ユーリ・ン(98)、白井剛(2000)、梅田宏明(02)などが受賞を機にバニョレに招聘され、世界に羽ばたき、国内外のダンスシーンを牽引していった。
ちなみに韓国のコンテンポラリー・ダンスの母といわれる陸完順はダンコレを見てソウル・ダンスコレクションや現在のソウル国際振付フェスティバルを立ち上げたという。
2002年に横浜赤レンガ倉庫が開場し、04年からはダンコレの拠点となった。
日本は1980年代にバブルの好景気を受けてヨーロッパから綺羅星のようなコンテンポラリー・ダンス作品を招聘した。その衝撃はすさまじく、日本の若手ダンスカンパニーも次々に誕生した。しかし90年代にバブルが弾けると多くの企業が支援から手を引いていった。そんな中でダンコレはバブルが弾けた後もダンスの火を守り続けたのである。
● ダンスの変化、フェスの変化
ダンコレが30年間続いて来られたのは、たえず時代の変化に敏感に対応してきたからだ。世界を視野に捉えながら日本のダンスシーンと併走し、ときに自らの体制を変え、つねにアクチュアルな存在であり続けてきた。それを30年間続けてきたとは、まさに驚異的である。
簡単に日本のダンスの状況をふりかえってみると、90年代初頭にバブルが弾けて招聘公演が激減。しかしコンテンポラリー・ダンスはある程度認知され、国内に有望な若手アーティストも出てきた。そこで若い才能を育成することと、最新の世界のダンスを紹介することに軸足を移すようになった。ダンコレからは黒田育世や矢内原美邦、伊藤郁女やKENTARO!!など、その後のダンスを牽引する存在が出てきた。
またかつて日本のダンス界はダンスカンパニーでの活動が主体だったが、日本の貧困化に伴いカンパニーの維持活動が難しくなり、ソロやデュオが増えた。そして岩渕貞太/関かおり、川村美紀子、中村蓉など個性的なアーティストが登場した。
しかしここ10年ほどは、再びカンパニー活動を志向する若手も増えてきている。北尾亘、下島礼紗、中川絢音、スズキ拓朗などの受賞者は自分のカンパニーを持っているが、かつてのような排他的な結束をもったカンパニーではない。主宰者が他カンパニーにダンサーとして参加するなどアメーバ状につながる新しい形になってきている。また近年も髙橋春香、浅川奏瑛、宮悠介など、新しい感覚の作り手も輩出しており、ダンコレの充実ぶりには目を見張るものがある。
ダンコレの体制もそうした状況に合わせて変わってきている。
「新人部門・プロフェッショナル部門」(96年、98年)だったコンペティションを2000年から「ソロ×デュオ・コンペティション」と変えた。振付の賞はバニョレ賞が併設されていたからだ。バニョレ賞が終わると05年から「群舞部門・ソロ×デュオ部門」、2011年から現在の「コンペティションⅠ、Ⅱ」と変わっている。
審査員も評論家からプロデューサー、振付家や他ジャンルのアーティストなど、時代によって変化がある。新しい顔ぶれと、継続して見続けている審査員がバランス良く構成されている。
そして何より大切なのは、30年前と現在とではフェスティバルの果たす役割が変わってきていることだ。
かつてフェスの重要な目的は、アーティストと作品の紹介(と売り込み)だった。その国の文化をアピールする政策の一環だったのである。
しかし現在のフェスは交流と出会い、そしてダンスとは何かということを共に研究し深めていく場としてシンポジウムやワークショップなどが精力的に行われるようになっている。
このいずれもダンコレが率先して体現してきたことである。
● 海外との連携
ダンコレは日本のフェスティバルの中ではいち早く海外との連携を積極的に行ってきた。
始まりからしてフランスのバニョレ賞があったわけだが、同賞が04年に終わっても、2000年から併置されていた「仏大使館賞(現:若手振付家のための在日フランス大使館・ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル賞。副賞はフランス滞在研修)」のおかげで、フランスへのパイプは継続されることとなった。
また08年から賞を出しているのがスペインのカナリア諸島で行われる国際フェスティバル、マスダンサである。来年30周年を迎える同フェスはヨーロッパのフェスティバルとしてはアジア各国のフェスと強いつながりを持つ屈指のフェスだが、そのきっかけとなったのがダンコレだった。筆者が芸術監督のナタリア・メディナにインタビューしたとき「ダンコレで始めて日本のダンスを見た時は本当に驚いた」と熱く語っていたものである。
現在では数カ国のフェスがダンコレで独自の賞を出しており、日本ひいてはアジアのダンスを世界に繋ぐ貴重なフェスとなっている。
もちろんそれは参加者にもいえることだ。ダンコレは第2回(98年)からすでに香港のユーリ・ンがファイナリストに残り、バニョレ賞を受賞するなど、初めから世界に対して開かれていた。現在では中国や韓国はもちろん、東南アジアからの応募も見られる。
そしてもちろん、ダンコレの受賞者と海外のアーティストのコラボレーション、様々な招聘公演なども活発である。
● HOTPOTの連携と汎アジアのダンス構想
ヨーロッパにはAerowavesやEDNなど国を越えて文化をつなぐ組織がいろいろある。しかしアジアの場合にはほとんどが海に隔たれているという地政学的な理由もあり、連携は容易ではない。そんな中、特筆すべきはダンコレと連携しているHOTPOTである。
これは香港・ソウル・横浜が毎年持ち回りで行う国際連携フェスである。「国」ではなく「都市」のフェス同士の連携なのも特徴的だ。現在は比較的距離も近い北東アジアのつながりだが、個人的には、Aerowavesのように汎アジア的なダンス・ネットワークにまで発展していくことを望んでいる。
かつては欧米にしかマーケットもネットワークもなかったが、いまやっとアジアにも構築されつつある。
バニョレ賞のときも「ヨーロッパのダンス界に受け入れられるような作品を選ぶのか、日本のダンスはこれだ! というものを見せるのか」という議論はされてきた。
しかしいまはもうヨーロッパの顔色を窺うのではなく、アジアの文化と歴史に立脚した新しいダンスのうねりを生み出す時期に来ている。
残念ながらダンスが盛んなアジア各国と比べて、日本は公的な助成が極端に低い。そんななか長年海外とのネットワークを築き上げ、未来を見据えてアジア各国との連携を深めてきたダンコレは、ほとんど唯一無二である。ここしかない、というのも国としてはお寒い状況過ぎるが、最後の牙城としてダンコレの30周年を心から祝いたい。
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