今の身体から、輪郭線をぼかし、拡張していく
宮悠介『架空生物の鳴き真似(Alien Blues)』稽古場レポート+レビュー

Photo by Maegawa Toshiyuki

 暗転の中で、二人のダンサーが壁にシルエットを映しながら、その影の出方を色々と研究している。張力のあるねばっとした動きや、どの部位から動き始めるかなど、振付の宮悠介がダンサーたち(北澤千晃と髙橋春香)にイメージを共有しながら指示を出す。筆者が本番に先立つ12月8日に、急な坂スタジオで行われたリハーサルを見学した際の様子である。この日は、音響や照明などのスタッフに対して全体を通して見せる日であった。若手のダンサーにとって、ヨコハマダンスコレクションに参加する意義は、こうした経験豊富なスタッフとともに創作できる点にもあるだろう。彼らと仕事をすることで学ぶこと、得られるものは多いはずだ。事実、宮もこの日、衣装をどのように舞台上に吊るすか、中に何を詰めるか、香りの演出や最後のシーンの演出プランをどのように具現化するか、彼らと相談しながら試行錯誤していた。通しでは、各要素がまだ荒削りの段階ではあったが、宮がこの作品で目指そうとしているものが垣間見られた。
 以下のレビューは、本番だけではなく、上述の通りそのリハーサルを鑑賞した上で執筆している。通常は一度作品を見るだけであるが、今回はそれとは異なる視点で作品に向き合うことになった。すなわち、リハーサルの時点ではこうだったところがこう変わった、あのシーンの仕掛けは結局こうなったのかなど、ある意味では答え合わせのような感覚を持ちながら本番の舞台に臨んでいたといえよう。もちろん振付家が目指すものが作品の解釈の全てではないものの、この体験は舞台に対する見方を広げるという点でも興味深いものであった。(公演鑑賞日:2023年12月12日 19時)

 『架空生物の鳴き真似(Alien Blues)』というタイトルがつけられた本作の出発点は、宮悠介の極めて個人的な記憶である。そして宮自身、そうした作品が「如何にして多くの人と共有され得るのか」という問いを抱えながら創作に向き合っていたことは、パンフレットの言葉が示す通りである。結論から言ってしまえば、本作の中でパーソナルな部分はあくまでパーソナルなものとしてとどまったまま、それでも架空生物という誇大な妄想を自身の身体の外側に「鳴き真似」をモチーフとして放出したこと、宮の身体から発せられる声や音、振動や風圧によって身体感覚を劇場空間に拡張したことによって、パーソナルな記憶は時に観客の知覚を刺激し、個々人の記憶に結びついた。もちろん、最後に観客が客席から去った後も一人踊り続けるというラストも含めて、作品全体としてはチグハグな部分がないわけではなかったが、踊る身体を媒介にして、想像の中へと世界や感覚を拡張していくことには成功していたと言えるだろう。

Photo by Maegawa Toshiyuki

 開幕からかなり長く続く暗転は、私たちの知覚のモードを視覚重視から別の感覚へと移行させた。宮が初めに拡張したのは、聴覚であった。人が舞台上を横切っていくような物音やその気配、マイクを通して聞こえるノイズが暗闇の中から聞こえてくる。一瞬やや明るく照らされるのは、舞台上手に吊るされた装飾的な衣装である。その際、宮がマイクで床を擦っている様子が浮かび上がる。その後も暗転が続き、マイクによって収音された音、何人かが走り回る音が聞こえてくる。舞台奥にかけられた暗幕にゆっくりと明かりが当たると、ファンが回り、それとともに爽やかな柑橘系の香り(この香りをどのように客席に届けるか、というのは稽古の中で議論された。香り自体はオレンジに近いと感じられたが、ここはやや引っかかった部分である)が漂ってくる。また、ダンサーがすぐ前を横切っていく気配が、空気の揺れとなって感じられる。聴覚だけでなく、これらの触覚や嗅覚(そして観客の記憶の中で場合によっては味覚とも連動)によって、自分の体の周囲の世界を改めて観客は認識していく。しかしここで舞台が明るくなった時に、宮がみかんの皮をむいているというのは、やはりやや解せない(オレンジの香りとの齟齬・・・)。しかし、みかんの香りや味は、宮の身体的記憶と密接に結びついている。それを個人の物語に収斂させずになんとか拡張していくドラマトゥルギーを選んだことで、今回の作品は今後につながる可能性を得たといえるだろう。

Photo by Maegawa Toshiyuki

 聴覚の拡張は次のシーンでも続いていく。マイクを使ったパフォーマンスで、宮は口にみかんを咥えた状態でマイクのコードを振り回してみたり、そのみかんを噛む音や、水を飲む音、息の音、心臓の音などをマイクで収音したり、体の表面をマイクでトレースしながら擦れる音を拾って増幅させたりする。さらに一度収音した音が断片化されて繰り返されたり、低い唸り声のような音なども新たに重ねられたりと、やがて宮が生み出した音が重層的に厚みを持って空間を支配していく。狼の遠吠えにも聞こえる唸り声は、笛の一種カズーを咥えながら喋るシーンへと移行しつつ、唸り声から人間の言葉へと変化する。
 「新潟を出て、愛媛についた」という宮の語り(やがて別の声による録音での語りへと引き継がれる)は、小学生の頃、母親と二人で故郷を出て見知らぬ土地・愛媛に移り住んだ記憶を伝えている。時々言葉が抜ける中で断片的に聞こえるストーリーから読み解けるのは、母親には「アトピーの治療」として愛媛に連れてこられたけれども、実際には住み慣れた地を急に離れ、今まで喋っていた言葉とは違う方言が話される場所で生きていかなければならなかった、ある種の苦痛を伴う記憶である。その底知れない恐怖は、稽古で何度も練習していた二人のダンサーによるシルエット、すなわち人間のようで人間には見えない姿によっても表現される。
 舞台を見ながら、そういえば私は小さい頃アトピー性皮膚炎だったことを思い出していた。成長するにつれていつの間にかアトピーは治っていったが、皮膚というものは私と世界を隔てる境界線のようであって、実はそうではない。皮膚に塗った薬は、染み込んでいく。皮膚は内と外を繋ぎ、透過し、私自身の身体を変容させていく。皮膚とはつまり、鎧のように外界を遮断するのではなく、私たちの身体の輪郭線を描いているようで、その実、その輪郭線はぼんやりと溶解していくものでもあるのだ。アトピーのモチーフは、本作においてあくまで自身の身体(痒さ、というのは人と共有し難い)に依拠しつつも、その身体は常に外部へと開かれ、拡張し、時にはその境界を揺らがせていく、そうした可能性に満ちた存在なのだということを思い出させてくれる。

Photo by Maegawa Toshiyuki

 記憶を辿り、身体を拡張しながら架空生物を作り上げた宮が最後に見せるのは、着飾った道化の姿と、それすらも全て捨て去って裸で踊る姿である。上手に吊られてある、フリルが付けられたピンクを基調としたキラキラした道化の衣装が急に降りてくる。それを取ると、溢れ出るのは大小さまざまなオレンジ色のボールである(これも稽古の際、どのように衣装の中からボールを出すか悩んでいた)。もう新潟に戻ることができなくなった宮少年は、愛媛で暮らしていくしかない。衣装を着て、白いドーランを手で顔に塗りたくり、時々体をバウンドさせながら泣き笑いのような表情を浮かべた宮は、「ははは」とバリエーションも付けながら声を出していく。その道化の姿から、スッと表情を消して立ち上がり中央へと進み出ると、手先や首など身体の末端部に先導されるような素早い動きと不意の静止を混ぜながら、膝を曲げて重心を下げて中腰になったり、回転しながらジャンプしたりと、力を振り絞るように踊っていく。曲調が変わって、先ほどの唸り声のような音も混ざりつつ、痙攣するような動きや時折「ははは」という笑い声が挟まれる。やがて宮は、拳で胸を打つ動作を3回繰り返したのち、この道化の衣装を脱ぐ。そして裸になり、同じように一人で踊り続ける。音も消え、徐々に明るくなっていく会場で、時折声を出したり笑ったり、息を切らしながら、何か捻るような動き、ジャンプ、肘を打ったり首を回す身振りなどを、空間を切り裂くように展開していく。その踊りは客電がつき、終演のアナウンスが入ってからも続いている。その踊ることに執着した姿は、最後の一人の観客が客席を去るまで続けられた。※
 ここで提示されたのは、自身を覆う装飾を脱ぎ去って、全て開けっぴろげにして観客の前に体を晒して踊り続ける宮自身の今の姿である。その身体は、ずっと踊っている。


※筆者が鑑賞した初日はこのような終幕であったが、2日目は途中で踊りをやめ、出演したダンサーとともに観客に挨拶したとのことである。