制御と解放
中川絢音〈水中めがね∞〉『にほンダてだっテ』レビュー

Photo by Sugawara Kota
猿轡(ボールギャグ)を咥えさせられたスウェット姿の女がひとり、アルミ製の味気ない椅子に座らされている。呼吸をするための穴には、小さな喇叭のようなものが四本ほど嵌め込まれている。喋ることはできない。髪もどこか無造作だ。やがて女は、騎乗位で誰かの肉体に跨っているかのごとく、小刻みな上下振動を繰り返しはじめる。
性的なコノテーションを含んだ「ダンス」ではある。しかし、この人間の目は虚ろであり、快楽のための動きには到底見えない。振動が思わせるのはむしろ、出産の苦しみに近い。じっさいに女は、腹部に丸い穴が穿たれた衣装を着ている。
鼻から吸い込まれた息の一部が、振動がもたらす疲労とともに、喇叭から吐き出されると不意に音が発せられる。疲労はやがて、規則的な振動に乱れをもたらし、つぎつぎと音が出る。その音とスピードが増幅していくと、息の塊はやがて赤子の泣き声──というよりも叫び声となる。わたしたちはいま、まるで機械どうしのセックスを垣間見ているかのようだ。しかも、そこから生まれた赤子はすでに絶望を知悉しているかのようでさえある。
中川絢音のソロとして踊られる『Anchor』は、肉体と椅子と照明によるシンプルな作品だが、どこかディストピア的な雰囲気を漂わせるショートピースだ。それはたとえば、村田沙耶香の小説世界を想起させる。夫婦間でのセックスが「近親相姦」とされて嫌悪される『消滅世界』。10人子供を産んだら1人の人間を殺す権利が得られる『殺人出産』。おそらく性行為も出産も個人の営みではなくなって久しい、まるで培養器のなかでの生殖実験を強制的に見せられているような居心地の悪さが、『Anchor』には横たわっている。
とはいえ、重苦しくはなく、滑稽味が漂う作品だ。オープニングからしばしの間、女を優しく包み込んでいる音楽は、シュトラウス2世の《春の声》である。森のなかで催された貴族の婚礼を思わせるウインナワルツは、重苦しい身体に、それとは無縁であるはずの優雅さや軽やかさを与えようとする。しかし、その試みは徒労にすぎない。産み落とされた身体は、地上の重力を受けながら、四つん這いになって前進してゆく。それは赤子の歩みのようにも、後背位のようにも見える。

Photo by Sugawara Kota
作品全体はおよそ三部構成となっているが、中盤の臓腑を揺らすような二拍子の地鳴りのような音楽を経て、終盤では奇妙なムードを醸し出すメロウな音楽と、抑揚のついた選曲となっている。作品に非現実的な位相を与えることに一役買っているのは、このような選曲の緩急である。一方、振付は日常的な動作を思わせるものが多い。これはたとえば、メグ・スチュワートの作品などとも通低している美学だ。
この点は、前半で踊られたトリオ(『my choice, my body,』)とは対照的で、制御よりは解放を、集中よりは忘我を、能動性よりは受動性を全面に押し出した作品になっているとも言えよう。観客からすると、「踊り」を見ているというよりも、「身振り」を見ているようだ。
舞台後半、女が椅子を倒すシーンがある。照明が赤にスイッチすると、ダンサーは右に左にとスピーディーにのたうちまわる。この場面は、中川の身体能力が垣間見える箇所でもあるのだが、この短い作品のなかで整然とした「振付」があるシーンは、それほど多くはない。だが、身体の受苦=情熱をテーマとする本作では、統御された美しい手足の軌道はたちまち邪魔なものになってしまうだろう。狭い意味での「振付」から零れ落ちるものに挑めるのは、ソロで踊ることも大きい。その利をうまく活かしていた作品だったようにも見えた。

Photo by Sugawara Kota
前半に上演された『my choice, my body,』は、「ヨコハマダンスコレクション2021-DEC」で中川が3部門(審査員賞、若手振付家のための在日フランス大使館賞、アーキタンツ・アーティスト・サポート賞)で賞を受けたいわば出世作であり、いまや〈水中めがね∞〉の代表的レパートリーとなっている。能の摺り足、バレエの要素、マイムのようなジェスチャーなど、さまざまなジャンルをミックスしながらも、作品全体が緊密な美と、アングラ演劇的な滑稽さをもっている作品だ。メンバーには入れ替わりがあるが、根本紳平、金愛珠とのトリオは、かなりの強度あるバージョンなのではないか。作品の中盤で面を唯一外す中川の足首のしなやかさ、根本紳平の抑制的なダイナミズム、金愛珠のシャープな身体とリズム感のよさが目を惹いた。
『my choice, my body,』は、黒いジャケットに能面をつけた三人のダンサーが踊る作品だ。〈コンテンポラリーダンス〉があらゆる形式や技術を受け入れる器であるとしても、能や日舞の所作がそれほど注目されてこなかったのは、やはり国内的な棲み分けに起因するところが大きいのだろう。幼いころから日舞を習ってきたという中川絢音は、日舞の身体性という問題系を「ダンス」の現場に持ち込むだけではなく、自身の身体のオリジナリティを探索している。
このような問題意識は、かつてのエウジェニオ・バルバと観世寿夫の国際交流などを思い起こさせる一方で、中川のきわめて個人史な側面も大きい。所与のテクニックを外在的な運動として受け入れるのではなく、自身の肉体や精神の歴史を掘り起こしつつ、「踊る根拠」を探ろうとしているのは、ピナ・バウシュの仕事にもいくらか通じていようが、しかしそれは運動が生み出されるプロセスにのみ関与しているわけではない。踊りを「観客=公衆」に見せることの根拠にもまた関わっている。

Photo by Sugawara Kota
今回の二作品のあいだには、幕間狂言のようなものとして、中川がフランス滞在時にクラスを受講したナッシュ(Nash)との対談の抜粋が上映された。彼女は、フランスのストリートで偶然目にした「クランプ」をきっかけに、キャリアをスタートしたアーティストで、京都のヴィラ九条山に滞在したのち、「横浜ダンスコレクション2019」で作品発表を行っている。
そこで語られていたテーマのひとつは、踊るときの「顔」についてだった。はたして、踊るときに表情を殺すべきかどうか。中川は、他のアーティストと協働するときに顔を消すように指示されることもあるらしいが、そのときに意識が分断されたような居心地の悪さを感じてしまうという。おそらくそれは、彼女が身体部位の運動からではなく、もっと奥底にある情動のようなものから踊りを生み出しているためなのだろう。その点でも、きわめて表現主義的なアプローチをしている振付家/ダンサーである。
もうひとつ、これは明示的に語られていたわけではないが、クランプというストリートダンスの「観客=公衆との近さ」も中川に影響しているにちがいない。コンテンポラリーダンスに限らず、観客の受動性の問題は、ギィ・ドゥボール『スペクタクルの社会』(1967年)などを筆頭に、(きわめて政治的な問題を内包しつつ)20世紀を通じてさまざまなかたちで語られてきたわけだが、彼女の問題関心は、みずからの作品を「ダンスラバー」という狭い領域に押し込めるのではなく、もっと広く「人々=公衆」を巻き込むような新しい関係性の構築を目指しているようだ。
彼女の関心は、ジャンル的に腑分けをするのなら、「演劇」とも「パフォーマンス」とも根底でつながっているのだろう。だからこそ、今回のような美学的な作品主義と並行して、彼女がダンス─動きを「見る」ことの奥深さを、ダンスをまだ見ぬ「人々=観客」に向けて発信していくことも期待したい。ほかのジャンルのアーティスト(音楽家、美術家、伝統舞踊家、動物……)との協働もあっていい。今後が楽しみな振付家/ダンサーのひとりである。

Photo by Sugawara Kota