出会い、迷い、豊けき闇へ
柴田美和『Victorious Cupid』レビュー

Photo by Ohno Ryusuke
横浜ダンスコレクション2021の受賞者である柴田美和の新作『Victorious Cupid』は、通常であれば交わらないふたつの世界の劇的な移行によって開始される。それは、ビートと風刺の効いたヒップホップ(TABOO1「禁断の惑星 feat. 志人」)から、荘厳なグレゴリオ聖歌への移行であり、ホワイエという流動的な空間から、正面性の強い着席型の劇場空間への移行であり、観客の身体により直接的に訴えかけるストリート的な運動性から、観客の思考と内面を経由する表象としての運動性への移行である。
経歴によれば、モダンバレエをその出発点としている柴田は、先述の受賞によりフランス、イスラエル、ドイツを半年ずつ渡り歩く機会に恵まれ、ヒップホップやストリートの可能性を自分の方向性に取り込みつつあるようだ。本作のタイトルになった『Victorious Cupid』は、ドイツで出会った《愛の勝利(Cupid as Victor)》という絵画作品にインスパイアされたものであるという。バロック期のイタリアの画家、カラヴァッジョの手によって描かれた絵画だ。
9月ともなれば、日本の真冬ほどの日照時間となるヨーロッパの国々において、「光」は神のシノニムである。〈神、光あれと宣ひたれば、光ありき。神、光を善きと観たまへり〉と、天地を創造した神は、光の創造者でもあった。生命とは、人間における光にほかならないが、それは人が闇のなかを歩まねばならない存在でもあるからだ。人は「闇」に喩えられるべき苦難や困難のただなかにしばしば置かれ、ともすれば、「死」という闇に放りこまれることになる。
カラヴァッジョが《愛の勝利》で描く少年(クピド)の姿は、右脚一本で立ち、左膝を後ろに折りながらも姿勢を崩すことなく、しかしけっして自然ではない。後方にある机から地上に降り立った瞬間であるようにも見えるが、顔は正面を向き、あどけない表情で微笑みを浮かべている。背中に生やす黒い鷲の羽根はリアルな重量感を放ち、その一端は彼の左腿に触れている。重心は左後方にあるのだろう、腹部の肉には4、5本の皺が寄っていて、その肉体の陰影は羽根に勝るとも劣らないほど現実味を帯びている。
この少年の姿の何にダンサーが魅了されたのかはわからない。ただ、荘厳な聖歌のひびく闇に包まれた舞台で踊る〈少年〉は、その聖的なイメージからはほど遠い。舞台上の柴田が「演じる」キャラクターは、まさにこの少年のように「羽根」の存在を見せつけたかと思えば、今度はボクサーのシャドウイングのような動作、そしてテンションの高い若者のような身振りへと、次々に動きを変えていく。動きはときにマイム的でもある。躁鬱状態のようにも見える。すべてが人間的な身振りであり、ダンサー本人の、あるいはその同時代を生きる人々の苦難や困難を表しているように見える。

Photo by Ohno Ryusuke
ショートピースを折り返すころに、舞台上に崩れ落ちたダンサーの上から、白い紙が次々と舞い落ちてくる。降伏を要求するビラのようでもある。じつはこの作品は、冒頭でダンサーとは別の(ヨーロッパ系の)長身の男性が登場し、指でつくった銃を客席に向けて放つところからはじまり、暗転とともに倒れこんだ〈少年〉の場面へと切り替わる。舞台上に溜まっていった白い紙は、轟音に包まれるなか、血のような真っ赤なライトに照射されるが、冒頭の男がふたたび登場して小銃のような送風機で白い紙を吹き飛ばしてしまう。
〈少年〉は空洞となった舞台をぐるぐると周回する。そして舞台中央で「内面」に深く入り込むような踊り(記号的な身振りや動作ではない)を見せる。この場面は、戦争や死のような現実的な文脈を経由したからこそ、線や軌道という抽象的な運動が、ある種の美しさを獲得している。苦悶の末に自死を選んでしまった傷つきやすい人間を肯定し、励まし、祈るようなメッセージ性がある踊りだ。またそれは、海外を渡り歩くなかでさまざまな他者や歴史に出会い、ともすれば自身が踊る根拠が失われ、迷うなかで、走り続けることを決めたダンサー本人の隠喩でもあるようだ。
気づけば、舞台上に〈少年〉はもういない。静謐な舞台にいるのは、日常的な身振りを伴う柴田美和だけである。彼女は白紙を一枚ずつていねいに、規則正しく床のうえに並べていく。次第にそれは、墓標のように見えてくる。死者への弔いのごとく。そしてダンサーは客席に向かってこのように告げる──〈Tout va bien, jusqu’ici.(だいじょうぶ、ここまでのところは)〉。フランス語を解さない観客にとっては、ほとんど呪文のような言葉でありながら、不安の少し入り混じる緊張した表情は、《愛の勝利》の少年が見せた安らかで不気味な顔つきを思い起こさせる。だいじょうぶ、ここまでは。

Photo by Ohno Ryusuke
ヒップホップには「内面」がない──そんな言い方を耳にしたことがある方もいるだろう。ヒップホップは、外にあるデータベースにアクセスして音楽を制作するからである。ヒップホップは一言でいえば人々が集う〈場〉であり、フォークやロックは社会と葛藤する〈個〉の叫びだ。社会が戦争を含めてさまざまな問題を抱えているとき、社会を非難して論難することがロックだとすれば、ヒップホップは苦難を踏まえた上での癒しを志向する。「だいじょうぶ、ここまでのところは」。これは、ロックの叫びとはほど遠い。
どうしてこんなに世界は絶望的なのか──このように柴田はロックな問いを立てない。世界は絶望的かもしれないが、彼女はそのなかでも光はあるのだと、闇のなかで呟く(この点でいえば、急逝したチバユウスケの曲を終演後に会場に流した中川絢音とは、対照的である)。それは究極的に凡庸な言葉ではあるが、きっと現在の彼女の世界との向き合い方を象徴する言葉でもあるのだろう。大衆的なストリート文化と高級な劇場文化のはざまで、彼女は迷いながら、豊けき闇のほうへと歩み出た。
Photo by Ohno Ryusuke