無名を夢想する
例年秋から年末にかけて過密なスケジュールと共に盛り上がる東京・横浜のコンテンポラリーダンスシーン。特に12月の横浜では、ヨコハマダンスコレクションを中心に連日公演やイベントが同時多発しており、ダンスファンや関係者は時間と場所をパズルのように組み合わせスケジュールを捌いていくことになる。かくいう私も出演アーティストと熱心オーディエンス、二足のわらじを履いて市内を駆け回っていた。
鑑賞した作品の中で特に自分の取り組みともリンクし思考が巡ったのは、Choi x Kang Project『A Complementary Set_Disappearing with an Impact』、宮 悠介『架空生物の鳴き真似(Alien Blues)』だ。彼らが舞台上で扱うイメージや技法自体は、フェスティバルの中で対極にあったと言ってもいいほどのコントラストを感じたのだが、私自身も取り組んできたアイデンティティ、意図、認知、現実、想像(ファンタジー)といった視点からは、何か同時代的な感覚が浮かび上がるような気がしている。
私が「アイデンティティ」という言葉を初めて強く意識したのは、ヨーロッパに滞在し始めたころだった。2012年、半ば勢いでドイツのベルリンへ飛び、入居予定のアパートへ向かってローゼンタラープラッツ駅前の大通りをトランク一つ引きずって歩いた日の景色をよく覚えている。「誰も私のことを知らない」と思った。かといってお前は誰かとも聞かれない。解放的だった。しかしダンスセンターや大学院に出入りするようになれば「自己」を「紹介」する機会は増え、正直全然分からねえが分かっているように振る舞うことも可、という極めて通常の社会的な態度へと戻っていく。こうしてボーナス的なアノニマス・タイムは半年ほどで終わり、むしろそこからは西洋文化との対話を通して、過激なアイデンティティのスクラップアンドビルドが始まった。
以前自分のエッセイ集にも綴ったが、ドイツ滞在初期、アイデンティティに関するささやかなカルチャーショックを感じたのは、手紙や郵便の宛先の書き方だった。英語もドイツ語も話せなかった当時の自分ですら、西洋では自らを名乗る際に【姓→名】ではなく【名→姓】と、日本人にとっては「遡る」形になることは知っていた。これは「私は〇〇家に所属する▲▲です」ではなく、「私は▲▲で(ちなみに)〇〇家の者です」という語り方だ。しかしドイツに来てから、郵便を送る際にもこの遡りが発生することを知った。差出人も宛名も【名→姓→通り・番地→地区→郵便番号・都市→国】といった具合に、帰属情報の同心円が外へ外へ広がっていくように後ろへと連なっていくのだ。更に興味深いのは、封筒や送り状の一番上にはまず差出人である自分の情報を書かなければならないことだ。送り先を書くのはその次、つまり最後になる。「あなたへ、私より」ではなく「私が、あなたへ」の文化である。うっかり日本の慣習通り自分の名前と住所を最後に書くと、数日後にその郵便が自宅のポストに届いてしまう。表に大きく宛先、裏に小さく差出人を書いても頑なにそうなる。日本では差出人が空でも手紙や荷物が届いてしまうことはあるが、これは主語を省いても大抵は意味が通る日本語の構造に似ているのかもしれない。
姓名。生命。私がこれまで自分の芸名以外に命名した対象は、猫と作品だけだ。作品に関しては、大抵構想のかなり早い段階でそれを決める。降りてくる、に近い。これがない時はうまく進められないことが多いのだが、これはジンクス的なことではなく、それまでに蓄積された自分の思考の地下水脈に接続できているか、ということだと捉えている。順序としては、人が生まれてすぐに命名されることに似ている。私たちはまだどんな人間になるかも分からずただ泣くことしかできない時に(多くの場合は親から)「名前」を与えられる。そこには願いや意志が込められている。この願いは、一見先に待つ未来のようでいて、名付ける人間の過去でもある。願いとは過去だ。それを自分と同一視し名乗ること、それは他者を自らに浸透させていく行為。「意味」が肉に練り込まれ、変容していく。意味は現在を経由して、先の道を照らす未来になる。その光は当初の他人の意図とは全く異なる像を見せるのだろう。
なぜ親はいつまでもお父さんお母さん、パパママと呼ばれるのだろうか。子は出会いから別れまで名前で呼ばれ続けるのに。「パパ」や「ママ」という音が、赤子の唇にとって最も発音しやすい、あるいは気持ちのよい音であることから、最初の発語になりやすい、というのは有名な通説である。また、当人たちが幼い子供に分かりやすいよう「ママは…」「お父さんが…」と自らを記号化して話すこともあるだろう。しかし多くの場合、子が成長した後もその呼称は続く。
宮の作品で、母という記号が「ハハ」という音を経由して、更に「ハハハ」という乾いた笑い声になり、その言葉の意味が剥奪された時、私はなぜか「アレクサ!」という掛け声のことを考えていた。世界中で違う人間が違う機械に「アレクサ!」と呼び掛けている。「アレクサ」とは何なのだろうか。
みんなで力を合わせたいときに、掛け声をかける。えっさ、ほいさ。オーエス。いっせーの、せ。力を出すために、しっくりくる音がある。意味ではない。ドイツ語だとZugleich!(ツーグライヒ!)になるが、これはどうにもわからない。意味がではない。
意味は動力になる。モチベーション、目的、動機と言い換えることもできる。一方で、意味に耐えられなくなることがある。意味が、定義が、力を奪う。きちっと切り取ったのに。にごる。ぼやける。

Photo by Sugawara Kota
カメラはカメラの仕事をする。イメージを切り・取る。時間を切り・取る。クッキー型でくり抜かれた残りの生地のような時空を、もう一度捏ねて、薄く伸ばしてまた切り取る。Choi x Kang Projectはこの反復行為を通して「不確かさ」の立証を試みる。身体、映像、オブジェクト、空間。不可分に絡み合うメディアを土俵に、内と外、意味と無意味の攻防が繰り広げられる。撮影カメラ、モニター、カーペット、舞台、あらゆる「枠」の外で起こっている「かもしれない」物語と、明らかにそこで起こっている事象=現実とのすれ違いだけが、ストイックに起こり続ける。

Photo by Sugawara Kota
対して宮作品は、ど頭から長い暗転の中で身体の気配が蠢く。「闇」が増幅させるイメージの誘引力を惜しげもなく利用し、その後に予見される記憶とファンタジーの世界への助走を我々に促す。ちなみに「母」が本作の軸となっている点に私が否応なく反応してしまうのは、私自身も「父」をテーマに舞台作品を制作し7年近く再演しているためだ。自らの記憶をマテリアルとして扱う上で求められるさまざまな駆け引きには、個人的に味わい深いものがある。しかしそれを除いても、自身のアイデンティティを発露しようとする身体のひりつきから目を逸らすことはできなかった。

Photo by Maegawa Toshiyuki
テクノロジーの発展によって人間の定義や現実の認識に大きな揺らぎが起きている時代、舞台芸術における現実と想像の境も鏡映しのように歪んでいくのだろう。二つの作品には、そこに対する抗いや逃走のようなものを見出したくなる瞬間が多くあった。

Photo by Maegawa Toshiyuki
ところで、以前、歌舞伎俳優の坂東玉三郎がインタビューで「生まれ変わったら何になりたいですか?」という質問に対して、少し間を置いて「もう生まれたくないです」と答えていた。この中学生の昼休みのごとく気だるい興味をぶん殴る返しには痺れる。国内外からその生命を祝福される伝統芸能のスターの言葉としてはあまりに重いが、彼と私にたったひとつ共通点があるとすれば、この願いだ。私の場合、正確には「名前をつけられたくない」なので、野生のたぬきや空に浮かんで消える雲になら生まれ変わってもいい。意味からの逃げ足を授かれるのなら、もう一度くらい生まれてもいい。