気配の行方
小㞍健太<SandD>『Engawa, Imaginary Landscapes』レビュー
建築と映像を専門にする私がダンスについて文章を書くということは、なかなかとっかかりが見つけにくい。小㞍健太〈SandD〉によるダンスパフォーマンス『Engawa, Imaginary Landscape』は、その名前にある通り、縁側的な空間体験をダンス作品に昇華したものだという。そこで、ダンスを身体と空間の関係性の芸術と捉える視点から、文章を書いてみたいと思う。
観客たちは暗く細い通路空間の両側に並び、開演を待つ。並んだ観客たちの中央を一人のダンサーが観客の身体に呼応しながら通過していく。それを追って二名のダンサーが通過していったのち、観客は彼らを追いかけ、奥に待ち受けるメインの空間へと導かれる。
観客たちは通路から見て左側のエリアで、自由に場所を動きながら鑑賞するよう促される。一方で右側はダンスのためのエリアとして確保されている。
この空間には、2×3の6本の既存の柱があり、部屋の中央には、2枚の壁面が平行に設置されている。そのほか、斜めに折れ曲がった木製のオブジェが客席側のアクトエリア内に、和室を模したオブジェがダンサー側の部屋の隅に配置されている。
ハネス・マイヤーによる舞台美術模型 Photo by Seo Kenji
部屋に入ると、ダンサーたちは観客の身体や折れ曲がった木のオブジェなどを起点として踊りを立ち上げていく。一人一人個別に踊っているフェーズでは、室内のさまざまな場所が個別にツボを押さえられるように踊られる。そのあいだ、中心的に踊っていないダンサーも観客の一人となったり、あるいはさっきまで踊っていた最後のポーズのまま、踊る人物を見つめていたりしている。踊りと踊り未満のような何かが混ざりあい、ダンサーの身体と観客の身体がまだどこかシームレスにつながっているようだ。空間全体が、緊張と緩和が入り混じった不思議な空気で満たされている。
私はゲネと本番の二度鑑賞する機会をいただいた。そこで、それぞれ異なる位置から鑑賞することにした。一度目は客席として確保されたベンチ付近から、二度目はさまざまな場所を移動しながら鑑賞した。ベンチの方からは、比較的全体が見渡せるようになっていた。しかし、その「全体が見えているような感覚」は、錯覚でしかなかったことが二度目の鑑賞で理解できた。
二度目の鑑賞の際は、部屋の中央にある壁に挟まれた場所から鑑賞を始めた。この2枚の壁は、死角を作り出す。このエリアに座っていると、常に「死角で何か踊りが展開されているのかもしれない」という見えない向こう側への想像が働く。背後や壁の向こう側といった不可視の領域に向けて、視覚以外のさまざまな知覚が次第に開かれていく。それは気配を察知する感覚といえばいいだろうか。
この2枚の壁に挟まれた空間は、ダンサーのための空間と観客のための空間のちょうど中間にある。西洋の劇場でいうならば、プロセニアムアーチを引き伸ばしたような場所だ。安全に鑑賞できる客席にいるときは自分の眼の前方だけを意識するが、このエリアでは意識が前後左右へと分散される。結果的に私の身体が意識され、またそのことによって同時に、ほかの観客の身体も意識される。
この2枚の壁面とダンサー側に斜めに配された黒いリノリウムによって、鑑賞体験は不均質なものであることが約束されていた。誰がどこから見ても、見えない場所が存在し、鑑賞体験は鑑賞者一人一人固有のものになる。全てを見ようと動き回れば、却って何も見ることはできない。どこかで見えないことを受け入れて、見えるものと見えないものへの想像によって、ダンスを体験することが、正しい鑑賞方法なのだと理解した。
複数のダンサーがバラバラに異なる位置で踊ることによって、鑑賞者は複数の異なる鑑賞条件で踊りを観測することになる。あるときには、一人のダンサーの動きに集中し、あるときは視覚の両端にギリギリ収まる二名のダンサーによって、知覚が分断される。
ダンサーの足がリノリウムに擦れる音や、近づいた際にふわっと広がる香水の匂いから目を閉じていてもダンサーの動きは感じられた。視覚は気配という感覚にとってはむしろノイズかもしれない。
3名いるダンサーはそれぞれを仮にA,B,Cとするならば、A、B、C、A-B、B-C、C-A、A-B-Cという全ての組み合わせの踊りが展開されていく。3名という人数は躍動を生み出す。二項対立に閉じず、引力の関係性が常にダイナミックに変化して、バランスを保ちながら動きのある関係性を持続する。
クライマックスに向けて、踊りは通路からみて右側の客が立ち入れないエリアへと集約され、気付けば部屋全体へと広がっていた緩慢の体験は一点へと集中される。
西洋的な壁面によって明確に領域が区分される空間に対して、縁側空間はより曖昧な境界を設定することが可能だ。アクトエリアと客席が曖昧に混ざり合うような空間体験はそう言った意味において、縁側的であった。またそれと同時に、この縁側空間が赤レンガ倉庫という西洋から輸入されたソリッドな空間のなかに再構成される試みと、西洋的なバレエを基とした彫刻的な身体が分散的に解体されていくような感覚は、シンクロしているように感じた。