テクニックを通して身体を眼差す
高橋萌登<MWMW> 両A面的ダブルビル公演『已己巳己 / Mushrooming』レビュー

2025.02.16

 ヨコハマダンスコレクション2024の受賞者公演のひとつとして、高橋萌登はストリートダンスとバレエに着目した新作をダブルビル形式で上演した。高橋にとって、バレエは踊る身体の基盤であり、ストリートダンスは振付家としての作品創作の基盤である。ストリートダンスとバレエ両方のバックグラウンドを持つ高橋の作品は、どちらのダンス・ジャンルにも分類できない「アウトサイダー」として見做されてしまう。今回上演された2作品において、高橋はテクニックを通してどのようにダンス・ジャンルへ挑むのか。

『已己巳己』 Photo by Sugawara Kota

 まず、『已己巳己』と題されたストリートダンスについての作品が上演された。本作には、各ダンサーの識別を難しくする仕掛けが随所に施されている。
 4人のダンサーは、揃いの白いハットと白い衣装に身を包んで登場する。衣装は身体のラインを拾いにくい形状をしており、それぞれの体格の違いは分かりにくい。また、帽子を深く被ったまま踊るため、観客はダンサーたちの顔をほとんど視認できない。よく目を凝らすと衣装のレースの装飾などの細かな違いに気づくことはできるものの、ダンサーたちのシルエットは似通って見え、観客が個々を判別するのは難しくなっていた。
 また、ダンサーを「混同」させる仕掛けは振付にも見ることができる。非常に激しいリズムの音楽に乗せられた高橋の振付は、指先に至るまであらゆる身体部位に対して角度や速さを設定するという、極めて緻密なものであった。音楽をリズムで細分化するように、振付によって身体を細分化していくのである。ただし、その振付は単にストリートダンスの語彙を引用して構成されているわけではない。基本的な足のステップと、上肢の各関節を柔軟に使い、身体を彫刻のように象徴的なシルエットに見せる動きを組み合わせることで、さらに複雑な振付が構成されていた。作品が進むにつれて激しさと緻密さを増す振付は、ダンサーたちの身体を制限し、それぞれの固有性の発露を抑えていた。

『已己巳己』 Photo by Sugawara Kota

 ストリートダンスは、音楽のリズムに動きを振り付けることが多いため、ダンサーにはリズムと身体をどれだけ同期させられるか、そのためにどれだけ自身の身体をコントロールできるかが求められる。複数人で踊る場合、同じ振付を繰り返し練習するほど、ダンサーたちの身体は次第に同調していく。しかし、動きの質が似れば似るほど、ダンサーそれぞれの身体的特性が、振付からこぼれ落ちる「差異」として浮き彫りになる。白一色の衣装や、どことなく似ているように見えるダンサーたちのシルエットも、これに寄与していたといえるだろう。
 目に見えるものの多くを近似させるほど、観客は通常のダンス作品を鑑賞するとき以上にダンサーたちを凝視し、振付を踊るダンサーの身体が浮かび上がる。舞台上で垣間見えるこれに気づくとき、観客は真に「ダンサーの身体を見た」といえるのではないだろうか。本作はタイトルが示すとおり「似ているようで異なる個の存在」として、ダンサーたちをまざまざと浮かび上がらせていた。

『Mushrooming』 Photo by Sugawara Kota

 そして、バレエに着目した『Mushrooming』。本作は古典バレエさながら、幻想的な物語の筋を持つ。高橋演じる主人公は、振付を考案する最中インターネットで見つけた謎のキノコを探しに行く。高橋は迷い込んだ森でキノコを見つけるが、それを食べると意識を失い森に取り込まれてしまう。やがて森の妖精たちが現れ、キノコが増殖(mushroom)していくように高橋も妖精の一員となり、物語は幕を閉じる。
 本作では、先の『已己巳己』とは対照的に、ビビッドでカラフルな衣装が用いられ、物語の筋や登場人物の心情を表現するために、多くのマイムが取り入れられた振付が特徴的であった。また、『已己巳己』が一見して明らかにストリートダンスに材を取った作品であったのに対し、本作ではバレエの語彙(いわゆる「パ」)の引用は控えられ、むしろ、身体を彫塑するような高橋独自の振付が、上肢のみならずもはや身体全体へ拡大されていたのである。ただし、振付は背骨を立て、股関節を外旋させて高い重心を安定的に保つというバレエの基本姿勢で踊られる。つまり、本作においてテクニックは、動きの語彙としてではなく、踊る身体を方向付けるものとして用いられていたのである。
 幼少期にバレエを学んだ高橋にとって、バレエのテクニックは身体の深層まで浸透し、身体そのものを見つめる手段として息づいていることが感じさせられる。いうなれば、高橋の中でバレエのテクニックはすでに解体され、身体感覚として組み込まれているのだ。それは、もはや習得した技術や動きの語彙ではなく、身体そのものが語る無意識の言語となっているのである。これを裏付けるように、本作で踊る高橋は、軽やかさと流れるような自然さをまとい、舞台上にしなやかに存在していた。

『Mushrooming』 Photo by Sugawara Kota

 2作品を通して、高橋はテクニックとは何か問いかける。それは、振付そのものを構成する、動きのボキャブラリーであるか。ダンサーが踊る際に、より自身の身体をコントロールしやすくするための身体訓練であるか。舞台上にあげられたそのダンスが、どのようなダンスであるかを示す指標であるか。我々はダンスを観るとき、無意識のうちに見知った規範を探し、特定の言葉で定義しようとしてしまいがちである。しかしそのとき、その本質である振付や身体そのものに目を向けることはできているのだろうか。高橋は、作品を通してテクニックを問いながら、観客の眼差しそのものを見つめていたのかもしれない。

『已己巳己』 Photo by Sugawara Kota

『Mushrooming』 Photo by Sugawara Kota