東洋の身体を探して

2025.11.21

2025年10月27日、わたしは台湾を代表するダンスカンパニー Cloud Gate Dance Theatre/雲門舞集 を運営する組織 Cloud Gate Culture and Arts Foundation(以下、まとめてCloud Gate)のレジデンシープロジェクト「Artist Journey」で、ニュータイペイの淡水に滞在している。Cloud Gateは1973年創設というとんでもなく長い歴史で、とても書ききれないし、間違っても迷惑なので詳しい説明は省く。ぜひご自身で調べていただきたい。
「Artist Journey」は、AND+(Asia Network for Dance)のプログラムの一環であり、アジア拠点の振付家支援を目的とし今年から始まった。わたしはというと、何も知らないうちに選出されたラッキージャーニー。そんなわけで、まだ滞在序盤。初日からの怒涛インプットにより整理できていない。これが公開される頃には書いたことを訂正したくなりそうだが心して書く。

2025.10.22 本人撮影

台北の喧騒とは異なるじっとりとした雰囲気の淡水、河口を望む小高い丘にCloud Gateの拠点 Cloud Gate Theatre/雲門劇場がある。到着してから淡水はずっと雨。霧雨と時々強い雨が降り続いて全体が霞がかっている。風も強い。揺れ動く迫力ある植物たち、野良と見せかけて首輪がついている犬、猫、虫虫虫・・・劇場がある丘を下ると遠くで聞こえるたくさんのスクーター、田んぼ、畑、遠くのビルと山。人間以外の生命?みたいなものの気配を強く感じ、いろんな音が聞こえる。と言いつつ、まだ慣れなくてナーバスなだけかもしれない。ちょっと人里離れてるし(後日、晴れている日の雲門劇場は公園として機能し、たくさんの人が散歩や太極拳や瞑想をしていた)。
到着早々まだ気持ちが上擦っている状態で観たCloud Gateの新作「ALL EARS/関不掉的耳朵」(National Theater/國家戲劇院)はまさにこういった音と光景だった。鑑賞後に読んだ当日パンフレットにはCloud Gate芸術監督 鄭宗龍の言葉で「Sound forms memory, it is an unseen dancer ー」と書かれていた。その点は自分のムーブメント(≠ 振付)思考にも繋がるものがあり、上演を反芻する。わたしにとってはムーブメントも音である。もちろん比喩だが。音と動きはハメる/ハメない、強い/弱い、勝つ/負けるという関係だけではない。

作品からは離れるが、正直、鑑賞者の多さとカンパニー規模のでかさに面食らっていた。ダンサーは作品クリエイション以外の日々のトレーニングを共にしているのが見て取れるし(日本の場合クリエイションから集合するのが大多数)、視覚的に評価可能な身体テクニックではない身体内部のコントロールは、拠点があるからこそ共有できる「身体」であることがわかる。身心一如感。それらのムーブメントを視覚だけでどうのこうの言うのはまた違う気もしなくはない。テクニカル面も大きな劇場を拠点にしてるからこそ可能にしている。拠点劇場の存在感。徐々にCloud Gateが作品上演や海外に向けたものだけではない、地域への地道な活動と歴史が結びついているということがわかってきて、巨大なバックグラウンドに日々驚いている。ちなみに、ヨコハマダンスコレクション2025で上演されるのは前作『WAVES』(真鍋大度とのコラボレーション)。


Courtesy of Cloud Gate Dance Theatre of Taiwan, Photo by Lee Chia-yeh

今回の「Artist Journey」はクリエイションではなくリサーチが中心になる。わたしは「東洋の身体」を探したい。東洋って!となりつつ。オリエンタリズムやエキゾチシズムではない、和とも違う、それぞれに身近なローカルの身体感覚。肉体や、視覚的な身体コントロール・テクニックだけではなく、風土、あらゆる信仰、習慣、習慣からなる動き(声もまた)、アティチュード。

わたしが東アジアを自覚し意識し始めたのは、ヨーロッパ・ダンスプラットフォーム Aerowaves によるSpring Forward 2022というフェスティバル(ギリシャ)での滞在制作・上演と、直後の生まれ故郷での滞在制作という変化球 NAGANO ORGANIC AIR(長野)の流れがきっかけだった。本来、Aerowavesはヨーロッパ拠点の振付家を支援するためのものだが、Spring Forward 2022には台湾、韓国、日本からも招聘された(故に「東アジア」と感じたのかもしれない)。
西洋「劇場」起源のギリシアから、日いづる国の信濃の山麓へ。時代設定?がめちゃくちゃだが、このロングジャーニーによってわたしがそれまで取り組んできたパフォーミングアーツとしてのダンスは完全に西洋文脈なのだと身体で実感し、うっすらと自覚しながらも見て見ぬふりをしていたあらゆる違和感が湧き出てきた。
その後というか途中というかで制作した『幽憬』は、日本のローカルな祭儀の心性にインスピレーションを受けている。が、身体でわかっていたものが言語化できなかった。初演も別ver.再演も終えて、ようやくじっくりと東洋の身体を〜と思いつつも、大海原すぎて手の付けように困っていた。

台湾では自分が何者であるかという問いがナチュラルに語られているように感じる。日本人の自分には複雑な気持ちになる面もあるが、多層的な歴史を持つ台湾だからこそ、それぞれ独自ルーツの「東洋の身体」を重要視しているのかもしれない。来週は台東の原住民ダンスカンパニー Bulareyaung Dance Company に参加させてもらう。台北で出会った人々ともまた全然違うのだろうか。
ぜひ原住民の祭りを見たかったが時期ではないとのこと。原住民族系以外では、今のところ客家義民嘉年華と、淡水油車口忠義宮(蘇府王爺廟)の王爺遶境をたまたま見ることができた。民がみんなして踊るというものはないらしい。
以前お邪魔させてもらった長野県下伊那郡阿南町「新野の盆踊り」は弔いの意味が強く、三日間夜を徹して、楽器は使用せず声だけで踊る。民が踊って弔う。こういう地域で生活して死にたいと思ったことがある。
もし、神事含めあらゆる芸能(唄や踊り)、地歌舞伎や芝居小屋、そういった「場」が現代日本で西洋文脈の「劇場」ではない「劇場」として発展していたらどうなっていたのだろうと想像しながら汽水域河岸を歩く。ロングジャーニーの河口。
寒い。全裸でお湯につかりたい。


2025.10.24 Cloud Gate’s Artist Residency Tree House 屋上にて 本人撮影