ある「プロセスを見せるダンス」をめぐる私的考察
福永将也『loafer』稽古場レポート+レビュー
Photo by Ohno Ryusuke
「イリュージョンを見せるダンスとプロセスを見せるダンス」。これは、木村覚著『未来のダンスを開発する』の冒頭に出てくるキーワードである¹。非常にざっくりというと、ここでいう「イリュージョンを見せるダンス」とは、クラシックバレエやモダンダンスのように、様式的かつ理想化された動きの美しさを志向する表現である。対して「プロセスを見せるダンス」とは、その背後にあるリアルな身体を、マテリアルとしてそのまま露呈させる傾向を持つ表現を指す。私はこの分類方法を、自分が創作するときはもちろん、誰かの作品にフィードバックをするとき、その表現が何を志向し、どこに焦点があるのかをつかむための指標にしている。もちろん、すべてのダンスや作品をこの二つにきれいに分けることが目的ではない。プロセス志向の作品の中で、イリュージョンのように目を奪われる瞬間が訪れることもあれば、逆の場合もあるだろう。ただ、ダンスの多様な現れ方について言葉にするとき、この二つの傾向がどのように離れ、あるいは重なり合っているのかを意識してみるのは有効だと感じている。なぜこの話から始めたかというと、ここでの「プロセスを見せるダンス」という考え方が、福永の創作を考えていく上でいい補助線になるのではないか、と思ったからである。
福永将也は、東京を拠点に活動するダンサー・振付家である。ヨコハマダンスコレクション2024のコンペティションIIでは、カメラ/モニターと対話するように動きを重ねていくソロ『Contact Shots』を発表した。ソロでありながら独白ではなく「対話」という言葉を使ったのは、福永がモニターに映し出される自分自身のイメージに、ある種の他者性を見出しているように見えたからである。そこからは、各動きやシーンを決まった画として再現するのではなく、むしろ遊戯的な「実験」の場に執拗に留まろうとする意志が感じられた。決められたプラクティスを練習して披露するというよりは、その取り組みの軌跡自体に光を当てる。それはまさに「プロセス」に価値を置いた試みだといえるだろう。この作品は、同コンペティションで最優秀新人賞とアーキタンツ・アーティスト・サポート賞という二つの賞を受賞した。今回初演された新作ソロ『loafer』は、その受賞者公演という位置付けであった。
¹ 美学者でダンス研究・批評家の木村が2009年に出版した同著では、「イリュージョン/プロセス」をはじめ、「タスク」「ゲーム」「死体」「観客」という5つのキーワードを軸に、フィジカル・アートを鑑賞・創作するための理論が紹介されている。(木村覚, 未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門, メディア総合研究所, 2009年, p.8.)
Photo by Ohno Ryusuke
稽古場を訪れる機会が最初にあったのは、初演まで2週間と迫ったある日。黙々と準備をする福永の手元にあるのは大量の紙。何の変哲もないA4のコピー用紙のようだが、それは既に皺くちゃで、これまでの稽古の蓄積が伺える。今回は本年7月にオーストリアのリンツで約2週間の滞在創作を行い、10月には東京・アーキタンツでショーイングを行うなど、段階的に場所を変えて発展してきた経緯がある。しかし、稽古の積み重ねが作品の輪郭を固定化させていくわけではないようだ。この日もこれまでに取り組んできた要素、そして未開拓の要素とのあいだを往来するように、徹底的にリサーチのスタンスを崩さない姿が印象に残った。手元に、そして足元に散らばる紙に目を向けると、その表面にはドローイングらしきものが描かれている。福永にとってその図形は動きを指し示すもので、床に散らばった紙は「振付が散らばっている」状態なのだという。そんな振付の「記録媒体」としての「紙」との戯れが、いくつかのプラクティスを通じて展開されていく。最も興味深かったのは、この紙が「スクリーン」のメタファーでもあるということだった。福永によれば、横長の白い紙がスクリーンのように見えるだけでなく、それは観客と福永とのあいだを隔てる層/境界であり、同時に両者の視線を受け止める共有の面でもあるという。こうしたイメージで紙を扱うことで、舞台と客席が二分された劇場空間の在り方自体を、プラクティスの内部に落とし込もうとしているのだろうか。
次に稽古場を訪れたのは、初日が目前に迫った時期だった。この日はメンターを務める振付家・ダンサーの敷地理が稽古場を訪れ、通し稽古が行われた。前回見学したときから継続されているモチーフもありつつ、構成や空間の使い方にも工夫が施され、新たに立ち上がってきた要素がいくつも見られた。通し稽古後、創作に伴走してきた敷地が「いまどのような形式のフィードバックを必要としていますか」と尋ねる場面があった。「質問の形式で」という福永の言葉を受け、敷地からダイレクトな問いが出る。「作品の一番大事なところって何ですか」。「わかっていることをやるなかで、どれだけ分からなくなるか」と福永。「わかっているっていうのはどういうことかな?」と敷地が続く。この根本的なやりとりが初日直前においても継続されるのが、福永の作品がプロセス志向であると感じる所以なのかもしれない。どのようなイメージで臨むのかという抽象度の高い問い、そしてそれが実際にどう見えているのかという具体的な問いを往復するなかで、ふと福永がつぶやいた。「いまやっていることを今日明日で180度変えられるところがあったら・・・」。更なる変化の可能性を滲ませる二人の姿を背に、この日は稽古場を後にした。
Photo by Ohno Ryusuke
さて、それでは本番がどうなっていたかというと、これまで稽古場で見てきたモチーフが、より複雑なかたちで現れていた。というより、むしろ掻き回されていたと言ってもよいかもしれないーー。客席に入ると、舞台の暗がりの奥の方から、断続的に物音が聞こえてくる。やがて姿を現した福永の両手にはA4の白い紙があり、それをクシャクシャにしてはパッと拡げるという動作を、開演前から延々と繰り返していたことがわかる。舞台の四隅には電球がいくつか置かれていて、淡い点滅が続いている。薄暗さと衣装の黒いトーンが相まって、福永の表情は読み取りにくい。その佇まいは内省的な静けさを保ち、ポーカーフェイスのような身体性を帯びている。福永は同じ動作を繰り返しながら、そのアクションそのものを運ぶように空間を移動していく。
Photo by Ohno Ryusuke
いったん姿を消したのち、今度は複数の紙で顔を隠すようにして現れる。紙の表面には矢印が描かれ、それらは動きの方向性を示す記号のように見える。その紙は一枚一枚落とされ、床に散らばっていく。再び姿を消した福永は、今度は大量の皺だらけの紙を抱えて戻ってくる。これまでの実践の痕跡と思わしきその紙片にも、記号のようなものが描かれている。福永は徐にそれらの紙を自らの服の中に入れていく。動きの記された紙=振付が取り込まれることで、身体はわずかに厚みを増し、別の形を帯びていく。だがそれも束の間、今度はそれらの紙を一枚ずつ引き抜き、床に落としていく。くしゃっとした紙が乾いた音を立てて転がる。すると、福永はそれに応えるかの如く、体を折りたたむように姿勢を変えた。紙を引き抜き、落とし、動く。その一連の動きが反復され、各動作のあいだに生じる短い間(ま)の連続が独特のリズムを生み始める。気がつくと、床に散らばった紙が大きな円を描いていることが分かる。福永は客席の方へ歩み寄り、観客に背を向けて一緒にその光景に目を向ける。その瞬間、轟音と共に舞台は闇に沈む。やがて白光が舞台中央を無機質に照らす。すると、福永は紙の上を走り始める。ここまである種の象徴性と共に扱われてきた紙はただの動線となり、乱雑に踏みつけられ、散っていく。疾走を保ちながら、福永は紙を再び服の中に回収し、今度はそれらを別の場所へ配置し直していくのだった——。
Photo by Ohno Ryusuke
稽古場に2回訪れる機会のあった私でも、ある種の混乱を覚えながら見ていた部分がある。それは、本作の基調となるモチーフのひとつである「紙を服に入れ、取り出し、そして動いていく」という一連の流れである。というのも、ここでは何が動きの発端となっているのかが一定しない。床に転がった紙を見て動くこともあれば、音に反応しているように見える瞬間もある。丁寧に扱われていた紙が、次の瞬間には乱暴に踏みつけられる。そこに特定の因果関係が提示されているわけではなく、むしろプラクティスそのもののルール/意味が上書きされ続けているようにも見える。しかし、福永にとってはそれが“過程”であったとしても、観客にとっては本番/作品という、ある種の“結果”として受け取られる可能性があることは無視できない。舞台は明るく、客席は暗いという従来的な劇場の関係性が維持される以上、観客はどうしても舞台上の出来事を「読み取るべき対象」として受け取ってしまう。意味深な身振りは、そこに動きの形を見せる以上の何かがあるように勘ぐってしまうが、福永はその手の内を明かさない。音響・照明は、観客の感覚を別の位相へと誘導する強い効果を発揮するが、そこで起こる出来事が即興性や偶発性に委ねられたものではなく、予め決められた「演出=段取り」であることを露呈させる。
Photo by Ohno Ryusuke
私自身も「プロセスを見せるダンス」を創作している作家のひとりとして、これらが極めて繊細な操作を要するものだと分かるがゆえに、もし自分だったらどうするかと自問しながら見ていたところがある。創作時には何かしらの動機や関心事があり、そこからコンセプトが立ち上がり、それに基づいたプラクティスを作って取り組んでいく。重要なのは、この「プラクティス」がどのように観客を前にした「パフォーマンス」へと移行するのか、という点にある。作家にとっては「これをやりたい、やらなければならない」という必要性があるとしても、観客にとってのそれと、必ずしも重なるとは限らない。だからこそ、その表現がどこに宛てられているのか、このプラクティスにとって観客がどこに位置付けられるのかが問われる。言い換えれば、稽古場と劇場の間に横たわるギャップをどう扱うのかに、作家の個性が顕になるのだろう。たとえば、福永が稽古場で繰り返し語っていた「紙=スクリーン」というモチーフは、あくまでもダンスを構成する内的イメージとして機能しており、観客に対して明示されることはない。何を表に出し、何を伏せておくのかという選択は意図的なものだろう。しかし、もしそのモチーフの意図がより明確に観客に伝わっていたらどうだったのか、あるいは、それを明示しないという選択がどのように機能しているのかを可視化することができたらーー。そう舞台を見ながら思わず妄想してしまうのだが、どうすればそれが可能なのか、私もまだ確かな方法を持ち合わせてはいない。その“答えのなさ”も含めて、プロセスをめぐる思考と実践の往復はなお続いていくのだろう。
(鑑賞日:2025年12月5日)
追記:本作は横浜での初演後、KYOTO Cultural Festival 2025の一環として、2025年12月18日から21日までTHEATRE E9 KYOTOで上演された。当日パンフレットの作品紹介では、「スクリーン」という言葉が用いられていたという。
