あわいの身体/身体のあわい
小㞍健太<SandD>『Engawa, The Self in Season』レポート
2024年12月、横浜赤レンガ倉庫1号館で小㞍健太は縁側をテーマとするコンテンポラリーダンス『Engawa, Imaginary Landscapes』を発表した(レポート記事はこちら)。それから1年が経った2025年12月、彼は再び「縁側」をテーマに新作『Engawa, The Self in Season』を発表した。今年は稽古場にも一度お邪魔させていただき、制作の裏側やインタビューを通して見えてきた新作における彼らの試みについてレポートする。
稽古場の群像
2025年11月14日、夕方。赤レンガ倉庫の3階にて稽古は行われていた。 扉を開けると、ざらりとした質感のアンビエントミュージックが耳を打つ。背後には木製の大きなフレームが組まれており、その前で4、5名のダンサーが踊っていた。
小㞍さんはその中に混ざって踊ることもあれば、ふと離れた場所から全体を眺めたりしていた。ダンサーたちの動きは、ある瞬間に二人がシンクロし、また解かれ、次はまた別の二人がシンクロし始める。それが3名、4名と増えていき、いつの間にか全体が鳥の群れのようにうごめき始めていた。先ほどまで俯瞰していた小㞍さんも、気づけばその群れの一部として呼吸を合わせていた。
休憩に入ると、リズミカルなノイズと鐘の音が混ざった、より緻密な音楽が流れ始めた。 「背景のフレームはまだモックアップなんです。本番ではもっと美しい、日本家屋の柱に使われるような材を使います」と説明してくれたのは去年と同じく舞台美術を務めるハンスさんだ。今回の要は、このフレーム状のセットが上演中に移動し、異なる構成(configuration)を作り出す点にあるという。
練習を見続けていると、ダンスの素養がない私にも、小㞍さんがダンサーたちに伝えようとしていることがぼんやりと見えてくる。 彼は身体の動きのガイドラインとして、姿勢の細部に対する意識の置き方を伝えているように見えた。動きの頂点となる姿勢と別の頂点となる姿勢の間をつないでいってダンスが生まれるのではなく、流れの連続のなかで立ち上がる感覚の制御の仕方を伝えることでダンスを作り出していた。
興味深いのは、その伝え方である。ダンサーという表現者は、その表現の特性上、自分の行っているダンスを自身の目で直接見ることができない。小㞍さんの指示は、そうした外的な視点による形に対する指示ではなく、流れがどう繋がって膨らみ、あるいは止まるかという内的な感覚を、自分の身体を基準に共有しているようだった。それは「Photoshop的」にピクセルを操作するのではなく、「Illustrator的」に美しいベジェ曲線の制御点を探るような感覚に近い。あるいは音楽でいえば、どの音を鳴らすかではなく、ある音から次の音へ移る際のニュアンスやタッチについての対話を重ねているようだった。
クリエーション風景 Photo: Lucas Provost
インタビュー:内と外/能動と受動
稽古の後、小㞍さんにお話しを伺うことができた。今回の「セットを動かす」という試みについて、その意図を深く語ってくれた。
「去年は、お客さんが自由に動いて視点を変えられる形式でした。でも今年はあえて、客席を固定し、舞台側のセットを動かすことにしたんです」 小㞍さんはそう切り出した。 「柱があることで見え隠れする視覚効果はそのままに、セットが動くことで『自分たちは外から眺めていたつもりが、実は中にいたのかもしれない』という、内と外の境界があやふやになる体験を作りたいんです」
今回の舞台は、欧州の伝統的な劇場形式に則っている。あえて「正面」を定めることで、小㞍さんは自身の世界観をより明確に、そして細やかに作り込もうとしていた。
「縁側から庭を眺める時、座る場所によって見える石の表情が変わりますよね。その『正面性』を逆手に取って、観客の視点をこちら側でコントロールする。そうすることで、僕がやりたい世界観の細部が見えてくるはずなんです」
さらに話題は「縁側」が持つ特異な性質、そしてダンスの本質へと及ぶ。 私が「縁側に座って庭を眺める態度は、能動的でもあり受動的でもある、佇んでいるような感覚ではないか」と投げかけると、小㞍さんは深く頷いた。
「その『曖昧さ』がダンスに似ているんです。ダンスも自分で動いているようで、毎日練習を重ねてオートマチックになると、実は受動的に体が動かされているような感覚になる。その能動と受動の行き来、あわいにある感覚を、お客さんと共有したい。日本庭園という非日常を楽しむ場所が劇場と繋がるように、日常のルーティンから解放された、時間の流れそのものを感じる空間を目指しています」
小㞍さんが描くのは、個人と個人あるいは個人と公共が極端に分断された現代において、その境界線を「曖昧」にしつつ、絶えず揺れ動く世界観へと観客を誘うことなのだ。
クリエーション風景 Photo: Lucas Provost
本番:不安定の安定
12月5日、本番当日。 赤レンガ倉庫の3階、会場をぐるりと迂回するように外廊下を歩き、会場に入ると、暗いステージの奥に白い壁と木製フレームのセットが鎮座していた。 まだ客電がついている中、ダンサーたちが静かに現れ、日本庭園の庭石のようにステージに座る。1人のダンサーがゆっくりと動き出し、柱に手を添える。見えない空気の流れに呼吸を合わせるように、ダンサーの身体の中に何かが流れ込んでいく。
暗転。 ぼんやりと光る白い壁を背景に、ダンスはレリーフのように、平面的かつ立体的な陰影を帯びてうごめく。 1人のダンサーのソロが始まる。まるで時間のスピードが伸び縮みするような感覚を覚える。ガーゼのような衣装を纏ったダンサーたちは、男女という性差を超えた、プリミティブな存在のように見えた。
Photo: momoko japan
圧巻だったのは、巨大なフレームが動き始めた瞬間だ。 フレームが動く。それだけで、先ほどまで「家」のように認識されていた空間が、突如として全く別のものへと変容する。客席側が動いているのかと錯覚するような目眩が引き起こされる。フレームがあることで認識できていた世界が、そのフレームごと揺らいでいく。
このフレームは上演中二度、三度と移動して、新たな背景を舞台に与えていく。その変容が、上演に「章立て(=シーン)」のような構成を与えていく。それぞれのフレームの配置によって認識されるシーンごとに、6名いるダンサーのそれぞれのソロが展開されていく。ソロを踊る人が現れるたび、全体の人数を数えて、増えてないことを確認する。いつも気づかない間に彼らは消えている。

Photo: momoko japan
Photo: momoko japan
小㞍さんのソロは、圧倒的な安定感に満ちていた。 身体を極限まで伸ばし切り、そこから縮んでいく際の「余白」の豊かさ。 不安定であるからこそ、常に変化し、揺らぎ、しかし決して崩れない。 「不安定の安定」という矛盾した状態が、そこには確かに存在していた。
終盤に近づき、フレームが宙吊りにされる。フレームの一方が天井から伸びてきたワイヤーで吊り上げられ、もう一方が床に接地した状態だ。この宙吊りの状態で、吊り上げられた箇所を中心に、フレームがゆっくりと旋回していく。これまではソロダンスごとに固定されることで認識されていたシーンという概念がゆっくりと溶け始める。目の前の世界を認識するとっかかりになっていたフレームが動きつづけることで、セット/ダンスという上演を構成する諸要素の境界が曖昧になり、脳の処理が追いつかなくなる。
ダンサーたちが一つにまとまり、鳥の群れのように動きだす。一人ひとりが個別の身体でありながら、全体としての意思に導かれ、一人では決して辿り着けない軌道を描く。実際の鳥の群れならば、個体がそれぞれになんとなく動くことで、群全体の群像が現れる。しかし、複数名の人間がそれを行う場合には、腕/頭/胸/腰/脚といった具合に、あるいはそれよりも細かく、一人ひとりが身体を解体し、そしてそれらを全員で再統合するような技術が必要になるのだろう。その時、ダンサー一人ひとりは、自身の身体の境界をどのように感じているのだろうか。
Photo: momoko japan
最後は、動きが全て止まり、音楽だけが聞こえてくる中で「時間だけが過ぎる」ことを感じる終幕へ。 「何か全部残っているけれど、全部ない」 小㞍さんがインタビューで語っていた、影と実体、セットと虚空があやふやになる瞬間。舞台上のフレームがゆっくりと止まり、客席には時間の残滓だけが漂っていた。 私たちは、縁側に座り、移ろいゆく季節を見送るように、その消えゆく余韻をただ静かに受け止めていた。
私たちの身体は、つねにある種の不安定な状態にある。 歩くという行為は、意図的に前方へとバランスを崩し、その不安定性を飼い慣らすことで成立している。 小㞍健太のステージは、まさにその「揺らぎ」そのものが踊りになったような時間だった。
