再生する遊園地
大森瑶子『A Park』レビュー

2026.03.31

 師走のはじまりだった。12月の横浜の夜はとても冷たい。一年が終わろうとしている事実と、新しい一年がはじまろうとしている現実を横目に、湿り気を帯びた潮風を頬に感じながら「のげシャーレ」に向かった。慌ただしい日常からほんの少しだけ離れる手立てが欲しい。そんなときに出会ったのが、大森瑶子の『A Park』だった。

 舞台美術として用意されているのは、段ボールで作られた「木」だけ。幼稚園のお遊戯会で、あるいは小学校の低学年の児童たちが学習発表会で用いるような、あの「木」だ。いや、いくら二次元的なものであったとしても、いまどきの児童たちならばもっと手の込んだものを作るかもしれない。それくらい、この「木」は簡素なもの。身体が触れたら簡単に倒れてしまいそうだ。そんな心許ないのがふたつ立っている。

 会場である「のげシャーレ」は小ぶりな箱だ。開場時間になれば、またたく間に観客の圧で満たされていく。アクティングエリアに佇むふたつの「木」は、私たち観客と対照的な存在だ。いろんな意味で、生命力がない。「木」とは本来、この“生命力”というものの象徴でもあるのに。これから大森が立ち上げようとしている虚構空間の象徴としてのみ、これらは機能している。そんなことを思った。そこへ大森がやってくる。青いクマの被り物とともに。

Photo by Ohno Ryusuke

 私たち観客がそれぞれに現実を背負っているように、彼女の身体もまた現実であり、揺るぎない真実だ。生命力を有さない虚構空間において、この身体の持つ生命力はよりいっそう際立っている。立っているだけで、そこに存在しているだけでだ。そんな彼女から生まれる踊りは、早くて、キレがあり、一つひとつの動きの精度が非常に高い。そのうえ引き出しも多いものだから、いくつものサプライズが私たちの前に差し出されることになる。

 これらが連なってひとつのムーブメントになったとき、ハッと目が覚めるような感覚を繰り返し何度も得た。すでに目覚めているはずなのに、そこからさらに目覚め、また目覚めていく。大森の踊りに接しているうちに、観客である私の生は磨かれていく。師走のはじまり、自分がどれだけ弱っていたのかを、この他者の踊りを介して知ることとなった。

 こういった変化が生じるとき、決まって私もまた踊っている。目の前のダンサーの踊りに呼応するように、客席に腰を落ち着けながらも心は踊りはじめる。たんなる錯覚でしかないと言われたらそれまでなのだが、気分が高揚しているのは事実だし、身体が火照り、心拍数が上昇している事実だってある。他者とは共有できない私自身の現実であり、動かし難い真実だ。

Photo by Ohno Ryusuke

Photo by Ohno Ryusuke

 では、大森の踊りと、客席に座している私の身体感覚の関係はどうだったのか。そこには縮めることのできない距離があった。彼女はたしかに目の前にいて、触れようと思えば実際に触れられる距離感を維持したまま、ひたすら踊り続けている。私と大森の身体は同じ空間に存在している。しかし彼女の踊りに関しては、そうは言えない。大森が踊りはじめたとき、私の身体は置いていかれる。緻密でスピーディーな彼女の踊りに魅せられているうちに、位相がズレ、私たちの身体感覚に大きなズレが生じるのだ。

 演者と観客の間には、目に見えない境界線が引かれている。どんな作品でも基本的にそうだ。これが大森の作品の場合、彼女が踊りはじめるとより強固なものになる。「絶対的」だと言ってもよいかもしれない。踊る彼女の身体には触れられない。その存在をすぐそばに感じていながらも、決して触れることはできない。これは劇場空間におけるルールのみによって実現しているものではなく、そもそも彼女の踊りがそれを許さないのだ。

 手の動きだけで、指先の細かな動きだけで、大森は祝祭を奏でてみせる。跳ねる彼女の身体は軽快で小気味よく、高速のアイソレーションに気を取られているうちに、新しい動きがいくつも重ねられていく。捉えたつもりでいた大森のダンスは、私の想像をいとも簡単にすり抜けていった。やがてそこには存在していないはずの「遊園地」の景色が浮かび上がってくることになる。そうだ、本作のタイトルは『A Park』なのである。

Photo by Ohno Ryusuke

 先述しているように、「のげシャーレ」のアクティングエリア内にあるのは段ボールで拵えられたふたつの「木」の美術と、この作品を統べる大森の身体だけ。「遊園地」を成立させるに足るものは何ひとつとして存在しない。けれども大森が踊り出し、サンプリングで構成された音楽が空間を満たしはじめると、誰も見たことがないはずの「遊園地」が立ち上がりはじめる。圧倒的な現実であり真実である彼女の身体が生み出すムーブメントが、虚構の「遊園地」を浮かび上がらせ、そこに生を与えていく。遊具たちはメンテナンスされ、生き生きと機能しはじめるかのようだ。

 大森はこの『A Park』を上演する空間を「廃れた遊園地」とし、自身がこれまでの歩みの中で抱いてきた喜怒哀楽の一つひとつを、遊具に変えることを試みたらしい。私はこれらで遊ぶのではなく、客席に腰を下ろしながら眺め、やがて自分自身の喜怒哀楽に変換した。師走のはじまり、弱っていた私の細胞は活性化した。また日常に還っていく力をここで得たのである。卓越した技術に裏打ちされた大森の表現力があるからこそ、実現しているものなのだろう。チープな「木」だって、いつからかこの世界の中で呼吸をしはじめる。それは文字通りの“生命力”の象徴としての「木」であり、この「遊園地」における遊具でもあるのだ。

Photo by Ohno Ryusuke

 大森は一見すると、私たちと同じような身体を持っているように思える。が、実際にはまったく違う。彼女が踊りはじめると、位相がズレる。この文章の中でそう書いてきた。しかし大森が掲げるコンセプトや主題によっては、彼女の踊りと社会の関係性が変わり、私たちの距離にも変化が生じるかもしれない。そうなったとして、それがいいことなのかは分からない。けれども、体感してみたいとは思う。彼女のあの身体性を、私はもっと身近に感じてみたいのだ。

Photo by Ohno Ryusuke